「坂之上の雲」の舞台を訪ねる旅
司馬遷には遼か及ばないがとの謙虚なペンネームをつけた司馬遼太郎が、近代日本史幕開けの躍動を描き出した小説「坂之上の雲」の舞台を訪ね、旅順・大連から瀋陽・長春と旧満州の地を9月の末に旅して参りました。
(旅順・大連)
温暖で風光明媚な旅順・大連の港は、ロシアが東方への出口として欲しがった天然の良港である事や湾口が極端に括れており、廣瀬中佐が艦を沈めて閉塞を試みた作戦も宣なるかなと思いました一方、東鶏冠山や203高地に残されたロシア軍の要塞と無数の弾痕を見ると、乃木大将が行なった肉弾戦が如何に無謀な作戦であったかの思いが強く、改めて18、000人もの若者の御霊に祈りをささげて参りました。
(満 州)
満州の広大な平野に延々と拡がる玉蜀黍・高粱の畑には圧倒されましたが、訪れた時点で最低気温2度、真冬にはマイナス30~40度に下がると聞きますと、貧弱な防寒服で闘った当時の兵隊さんや後の満蒙開拓団の人々のご苦労が偲ばれました。また、満州の地には所謂愛国教育と称し日清・日露戦争から満州事変・太平洋戦争終了に至るまでの文物を恣意的に展示した建物が随所に存在し、先生に引率された小学生や一般市民が多数見学に訪れておりましたが、街で接する人々には反日感情というようなものは全く感じられませんでした。
古来、中国人は上(統治者)の交代や政治の変化には、我関せずで、太極拳の動きのように悠然と過ごして来たようですが、逞しい人々ですね。
2010年10月
木村鎮夫
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