6月23日(土)、東京・京橋プラザ区民館で、「楊名時先生を偲ぶ太極拳交流大会・総会及び関東地区審査会」が開かれ、各地から110名のお仲間が集まりました。 木村鎮夫師範の開会の辞の後、楊名時先生の遺影に向かって、全員で1分間の黙祷を捧げました。
総会の後の楊麻紗先生は挨拶で「本日は晴天なり!晴天なり!」、楊名時先生は雨の時でもこの言葉を発して、いつも笑いを誘っていました。偲ぶ会は今年で13回目になりますが、雨になったのは初めてです。参加して下さった皆様に、心から感謝申し上げます、と述べられました。
全員で行った立禅・八段錦・太極拳は、安らかな中にもしっとりとした動きだったように感じました。
さあ、今年の大会から行われる「関東地区審査会」の始まりです。4教室18名が審査を受けました。落ち着いていて流れが良く、全員が揃っていてとてもよかった、と麻紗先生の講評でした。お二人の師範には、麻紗先生より免状が授与されました。おめでとうございました。
続いて、参加者の紹介が麻紗先生より行われ、それぞれ拍手で歓迎し合いました。休憩の後、全員で11番までの不老拳を行い、麻紗先生の「楊名時太極拳の原点」と題する講話をお聞きしました。その要旨を次に記します。
一人の宮本武蔵でなく万人の健康
楊名時先生と麻紗先生は「善隣書院」という中国語の夜間学校で、先生と生徒として出合いました。55年前のことです。ある時、楊先生が「日本武道館で太極拳を教えることになったので、君たちも来ないか」と誘いましたが、太極拳を習いに行ったのは20人中麻紗先生一人だけだったそうです。
その最初の授業に楊先生は、開口一番「私は一人の宮本武蔵を作るのではなく万人の健康作りのために太極拳を指導致します」、と明言されました。
南極圏・北極圏・太極圏?
太極拳は健康法だけでなく武術、競技、哲学芸術などの側面もありますが、先生は健康法を第一義として武道館で8年近く、お一人で獅子奮迅の指導をされました。
3年を過ぎた頃、文化出版社から楊先生の太極拳の本が出版されました。楊先生は喜び勇んで銀座の某書店に行き、「太極拳の本ありますか?」、と老店主に尋ねたところ、「南極圏北極圏は知っているけど太極圏はしらないねえ、どこですか?」楊先生の答えが振るっています。「太極拳は広い宇宙の根源だよ」と。店主は圏と拳を取り違えたのですが、それだけ日本ではまだ太極拳の知明度が低かったのです。
稽古のスタイルと感謝の心
楊先生が武道館を去られたきっかけは、中国の制定拳をやりたいとの某生徒の意見でした。それが上層部の命令であることを察した楊先生は、「和して同ぜず」という言葉を残し潔く身を引きました。
その後、楊先生を空手の恩師中山正敏先生が、恵比寿にあったご自分の道場に教室を開いて下さったそうです。それから半年後、新宿・朝日カルチャーセンターからの要請で、楊先生独自の健康太極拳講座が始まりました。水曜日の一つの教室から、次々に教室が増えていき、やがて全国のカルチャーセンターへ広がっていったのです。
楊名時先生の指導は教室を道場と考え、道着と裸足で太極拳を稽古する方法で、日本の武道と禅の心を融合させたものです。そして、楊先生は心を最も大切にされました。
さまざまなしがらみから離れ、自分の本当の姿になりきり、風船玉のようにふんわりと舞う。太極拳という型を借りて心と体に広がりを感じる道を、楊先生は求めたのだと思います、と麻紗先生はお話を結ばれました。
麻紗先生のお話の後全員で舞った太極拳は、楊先生への感謝と仲間との絆の深さが表出さた素晴らしい舞いでした。
楊砂織師範は閉会の辞で、参加された皆様へ重ねて感謝を述べ、麻紗先生のお話で一つ加えるとすれば、楊名時太極拳は音楽をかけないで稽古することです。今後とも皆様のご協力をお願い致します、と述べられました。
こうして、穏やかな中にも密度の濃い偲ぶ会・総会・審査会は終了しました。
養心会事務局記
2018/7/16
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